皇甫謐(こうほひつ)
[215~282]中国、西晋の学者。安定・朝那(甘粛省)の人。字(あざな)は士安(しあん)。号、玄晏(げんあん)先生。その学は百家に通じ、「帝王世紀」「高士伝」「列女伝」などを著した。また「甲乙経」を著し晋以前の鍼灸(しんきゅう)学の集大成を行った。
ある日、皇甫謐は甘いウリの実がなっているのを見て、母親に献上した。すると、ウリを見ながら母親は泣いた。「お前は20歳になるというのに、何の教養もありません。時間を無駄にしているのを見ると、私はとても悲しいのです。孟子の母は子供の教育のために3回も引っ越しをしましたが、私たちはお前のために、よい場所を選ばなかったと言うのですか?本当によい息子になりたいのだったら、一生懸命、学びなさい。なぜお前は経書を学び、徳を修養しないのですか?」
皇甫謐は母の言葉に胸を痛め、深く反省した。そして、彼は今までの生活を改め、これからは精進し、決して時間を無駄にしないと母親に約束した。その日から、彼は片時も本を離さず、一日たりとも休まずに読書に勤しんだ。野良仕事をするときも、休憩の時間があれば熱心に本を読んだ。彼は、本を読めば読むほど志が強くなり、心が落ち着いてくるように感じた。
彼は歴史、道徳、古典、医学など百家の思想に通じ、26歳で学者となった。そして、莫大な文章の執筆に励むようになる。「帝王世紀」、「高士伝」、「列女伝」「陰陽暦術」「針灸甲乙経」など、後世に残る有名な文書を多く残している。
皇甫謐は優秀な学者として広く知られるようになったが、常に控えめで、名利に対しても淡泊だった。より名声を高めるべく、社交の場に出るよう友人たちが促したが、彼はシンプルな生活を望んだ。
何度も仕官の要請があったが、丁重に辞退した。彼は皇帝への書簡の中で、「賢帝は、真実を述べる、勇気ある大臣に恵まれ、その寛大な政策は、国を憂う人々を呼び寄せるといいます。陛下は賢いお方であらせられますから、どうか私には執筆と、医学に専念することをお許し下さい」。皇帝は願いを聞き入れ、彼に荷車いっぱいの本を授けた。
彼は骨身を削り、熱心に読書と執筆作業に力を注いだ。周りからは、そんなに精魂こめると命が縮まると言われると、「朝に道を聞けば、夜に死すとも可なり。人間の寿命は、天が決めるものである」と答えた。
名利や利己心を捨てれば心が軽くなり、長生きできる。富や権力から離れれば、真の「道」を悟ることができる。彼が残した人生の知恵と養生法は、現代にも通じるだろう。
(中国語)
皇甫謐晚讀書
皇甫謐是晉朝人,二十歲時仍然不愛學習,四處遊蕩,人們都說他不懂事。一次皇甫謐得到瓜果,拿來獻給母親,母親說∶“你今年二十歲了,不看一點教化人的書,心裏不存道義,難道這些瓜果能安慰我嗎?”母親感歎說:“從前孟母三遷,曾子殺豬來教育自己的孩子,難道是我沒有選擇好鄰居,對你教導無方,使你如此愚鈍不開竅的嗎?讀書修身,對你自己有好處,能給我帶來什麼呢?”
母親說著對著皇甫謐哭了起來。謐皇甫謐感到慚愧,開始跟隨鄉里有學問的人學習,帶著經書到地裏耕作,漸漸博覽了四書五經,諸子百家的著作。後來手殘疾了,仍然廢寢忘食讀書,有人勸他不要太過投入否則會損耗壽命,皇甫謐說∶“朝聞道,夕死可矣,更何況人的壽命長短是由上天所定,不是我能左右的!”
皇甫謐有了大學問後,地方推舉他為賢良方正,朝廷任命他出來做官,他都沒有接受。後來皇帝只好送給他一車書以示獎勵表。《晉書》