死の現場から、脱出した。
しかし、爆発で私の家は、その半分が吹っ飛んだ。
見慣れた多くの顔が、一瞬にしてこの世から消えた。
天津万科海港城=爆発現場から600mの団地
ニュースでは一言も言及されていない。
私の家は「万科清水藍湾(海港城とも呼ばれている)」にある高層マンション。
爆発現場から600mしか離れていないこの団地には、3370戸、およそ1万人が住んでいた。
ここはゴーストタウンではない。
万科で最も良く売れた物件の一つだった。
私はこの、爆発現場から最も近い団地「万科海港城」の4号棟に住んでいた。
事故当日は部屋の中に閉じ込められていたが、運良く救出された。
部屋の中はこんな状態。
この団地には30数棟のマンションが建てられており、うち20数棟は33階建ての高層マンションである。
では、ここにはどんな人たちが住んでいたのか。
団地には確実に3000戸以上の世帯が入居しており、そのほとんどが若い夫婦と小さな子供たちだった。そして孫の面倒を見るために中国各地からやってきた若者の親たちであった。
我々は、自分の貯金と親が汗水垂らして貯めたお金を頭金にして、ここに家を購入した。30年のローンを組んで手に入れた、夢のマイホームだった。(1平米あたり10300元。広さは90平米と120平米)。家を購入してからようやく戸籍をここに移せた(中国の戸籍制度は厳しく、都市戸籍の取得は容易ではない)。
マンションの他にも、団地内には建設中の幼稚園、小学校などもあった。
そして労働者(農民工)たちも。彼らは団地の簡易住宅(木造の宿舎)に住んでおり、爆発現場からはさらに近かったはずだ。
そして、毎日顔をあわせていた団地の若い警備員たち。
彼らは今どこに?生死は?
爆発当時の状況
爆発があった12日、私が帰宅したのは夜11時前。
ソファに座って、同僚に仕事の件でメッセージを送っていると、突然轟音が鳴り響き、空が真っ赤になった!
赤い火の玉が、向かいの7号棟に降り落ちるのが見えた。
最初に私の脳裏をよぎったは「戦争が起きた!空襲だ!」
そしてマンショが揺れた。
慌ててトイレに逃げ込んだ。この時、2度目の爆発が起きた。
2度目の爆発の轟音とともに、トイレの中が激しく揺れた。私は便器にしがみつき、このまま死ぬのかと思った。
爆発音が止まっている間に、トイレから出て、急いで玄関に向かった。
しかし、ドアが変形して開かない。
「助けて!」と必死に叫ぶ。脱出中の上の階の住人が、外からドアを開けようとしたが、ドアは一向に開かない。
その時はまだ何が起きたかさえわかってなかったので、ドアの外にある隣人に119番に電話するよう頼んだ。
閉じ込められている40分間、様々な「もしかして」が脳裏をよぎった。ガス爆発?テロ攻撃?
自分でも119番(消防署)に電話をかけた。
しかし、多くの若い消防隊員が爆発とともに犠牲になったことを、その時は知る由もなかった(涙)。
35号棟に友人が住んでいた。彼の一家は脱出できたが、私のために戻ってきて、ドアを開けようとした。
すでに変形したドアは、外からも中からも開かない。
すでに精神は崩壊寸前。それでも「助けて」を叫び続ける私。
幸い、若い警備員2人が駆けつけてきて、斧でドアを壊し、ようやくドアを開けることができた。友人が私の手を引っ張り、必死に階段から逃げ出した。
爆発から3日目
ニュースを見た。
誰かがウィチャット(微信)に、団地の爆発の前の写真をアップした。最も多かったのは小さな子供たちや犬、遊園地の写真だった。
私の姪も毎年夏休みになると、ここにきて滑り台や砂場で遊んでいた。
幸いなことに、爆発の時、私の家族はここにいなかったため、皆無事だった。
本当に不幸中の幸いである。
PS*この文章は生存者がのちに自身のブログにアップした写真と文章です。