唐の時代、紀王李慎(第二代皇帝・唐太宗の十男)に楚媛(そえん)という娘がいました。
楚媛が八歳の時、父親が病に伏し、楚媛は心配で食が進まなくなりました。
娘の沈んだ表情を見た紀王は、自分の病気が治ったとうそをつきました。しかし、楚媛は父親の顔色が相変わらず良くないことに気づき、ますます食事が喉を通らなくなってしまいました。楚媛は非常に父親思いだったのです。
当時、宮廷内では「富を誇示する」風潮がありました。贅沢をし、大金を惜しまず費やしていました。まわりの人は楚媛の倹約ぶりを見て言いました。「あなたは本当に考え方が堅苦しいですね。人生は短いのだから、思うがままに暮らしたほうが良いのに。こんなに節約して、生きている意味があるのですか?」
楚媛は答えました。
「小さいころから、礼を重んじるよう育てられました。今、節約して暮らすのは今までのやり方を受け継いだことになり、皆さまが言われる『思うがままに』と同じでしょう。女性は折り目正しく、謙遜するのがよいと思います。もし、贅沢したり、自分を放縦したりすれば、名誉を汚すことにほかなりません。富貴や贅沢は虚しく、失いやすいものです。失ってしまえば、何に頼って生きていけばよいのでしょうか。何をもって、他人に驕ったり、威張り散らしたりすることができるでしょうか。富貴な時に困窮の日々を思うべし、驕奢(きょうしゃ・おごってぜいたくなこと)、放縱(ほうじゅう・勝手気ままに振る舞うこと)すべからず、ということを常に肝に銘じています」(大紀元より)
中国語:富貴應思窮苦日 驕奢放縱不可為
唐朝時代,紀王李慎有個女兒叫楚媛。當楚媛八歲的時候,紀王得了病,楚媛整天愁眉苦臉、茶飯不思。紀王見她這麼小就懂得孝順心疼父母,就騙她說自己的病已經好了。但楚媛觀察到父親的臉上仍帶著濃重的病色,仍然憂愁不已,吃不下飯。從這件事已經可以看出楚媛有多麼聰明和孝順了。
長大後,楚媛嫁給了裴仲將做妻子,她耐心仔細地照顧婆婆,對丈夫敬重恭謙,妯娌之間和睦相處,對晚輩和傭人非常和善。
那個時候,宮廷貴族間盛行鬥富的風氣,那些人驕奢放縱,出手千金也不可惜。
有人見楚媛持家非常節儉,就對她說:「你呀,未免太過死板了。一個人活在世上,也不過幾十年,人生如此短暫,一定要順著自己的意志過活,才好哇,像你這樣勤勤儉儉、清湯寡水似的活著,有什麼意思呢?」
楚媛卻答道:「我從小就講禮法,現在節儉地過著日子,也是順延以前的做法啊,我這樣也是你們說的『順意』吧。而且在我看來,婦道人家還是應該恭謹謙遜比較好,假如驕奢放縱,那簡直就是敗壞名譽了。況且富貴和恩寵,這兩樣東西得來不易,卻能輕易失去。失去後還憑什麼生活,還靠什麼再去傲視、欺淩別人呢?富貴應思窮苦日,驕奢放縱不可為!」