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中国第一の名将ー韓信(千古名将韓信)

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苦難の中に生きる

漢朝建国の名将であるは、平民身元の英雄で、同時に軍事史上、前後に例を見ることができない稀な人物だ。

天地間に邪悪勢力(運命と言ってもよかろう)が蔓延って、あの手この手で韓信を邪魔した。その結果、彼は一生の間に常人では考えられないような苦難に遭っ たが、韓信は挫けるたびに勇気を奮い起こし、不撓不屈であった。このため、長く言い伝えられるような佳言やエピソードを残し、後世の手本となった。

一飯の恩義

韓信は江蘇淮陰に出生して、年少時に両親を亡くし、家の生活は貧しかったため、一日三度の食事もままならず、親友に頼るしかなかった。

あるとき、彼は亭長(農村等の治安担当役人)の親友を頼って食客となっていたが、食事の量がかさむからと、亭長の妻は彼を冷たくあしらい、わざと三度の飯を供しなかった。
とうとう、亭長の妻は、連日早起きして飯を作ると、直接亭長とベッドの上で食べてしまったので、韓信が起きてきても、鍋の中には何もなかった。結局、韓信はやむを得ず、空きっ腹を抱えて、亭長の家を出た。

韓信は飢えを忍んで,河辺で釣りをし,魚が釣れるといくばくかの銭に換え、釣れない時には、河辺で洗濯している婦人たちに飯を恵んでもらった。

そのうちのある老婆が彼を憐れんで、しばしば自分の食事を彼に分け与え、しかも彼を激励して、「男たるもの、志を立てなければいけない。終日、他人に頼っていてはいけない。努力しなくては!」 韓信は、この激励を受け、努力して自己の前途を切り開こうと決心した。

後に韓信は出世し故郷に錦を飾った際、当時老婆が飯を恵んでくれたことを決して忘れず、特別に千金を送り、感謝の意を表した。

 

恥を忍んで股下をくぐる

若い時の韓信は早くから読書に刻苦することを知り、兵法を熟演する天与の才能を持っていたことから、国家天下を安定させたいという抱負を抱くようになり、中華中の兵学部分を築き上げたいという大志をもつようになった。

ところが、運命の邪悪勢力は、韓信の兵学が華夏の子孫に用いられることを恐れ、それを滅ぼそうと、韓信の周囲の人を教唆して韓信を冷遇し蔑視させた。

あるとき、無頼漢の悪党らが韓信を辱め、韓信に人殺しをさせようとたくらんだ。実はそれは、一刻も早く韓信を挫き、その志を駄目にしようとしたのであった。

ところが、韓信はこの悪の小細工を見破り、逆に、中華伝統文化中の「忍」の内包を強め成就することとなった。そこから、「忍」の心を説く「韓信の股くぐり」の故事で生まれたのである。

 

韓信のまたくぐり

 

蕭何、月下に韓信を追う

紀元前209年、陳勝、呉広が挙兵して立ち上がった。
韓信は剣を携えて項梁の西楚軍に参加した。項梁の戦死後、運命の邪悪勢力は韓信が兵法を発揮するのではと恐れ、故意にが韓信を重視しないようにした。
韓信は、西楚軍を離れての漢軍に身を寄せたが、運命の邪悪勢力はあれこれと妨害して、劉邦が韓信を信用しないようにしむけた。
その結果、韓信は一旦は漢軍の宿営地を離れることになるのだが、そこから、「蕭何、月下に韓信を追う」の故事が生まれた。後に、劉邦は蕭何の諌言を受け入 れ、やっとみずから韓信と軍国の大事を討論し、韓信が稀代の才能を持っていると確信して、儀式を執り行って大将に任命した。

 

漢の天下、韓信の出撃に頼る

このとき、劉邦はまさに関中(現在の陝西省)を取り戻そうと準備していた。劉邦は蕭何の進言を受け入れ、これより、文は蕭何に、武は韓信に頼み、挙兵して東に向かい、天下を争奪した。
漢の高祖元年(紀元前206年)5月、韓信は、「昼は桟道を修理して、夜は陳倉を渉る」作戦で、西楚の章邯軍を大きく打ち破り、一挙に関中地区を制圧して、劉邦に三秦を掌握させた。
漢の高祖2年(紀元前205年)8月、劉邦は韓信を左丞相に封じ、兵を挙げて魏を攻めた。韓信は、一方で黄河西岸の臨晋に大量の船を集結させて、魏王豹軍 の主力を引き付けておき、もう一方で上流の夏陽から河を渡って安邑を奇襲し、突然に魏軍の背後に出現して、魏軍を大破し、魏王豹を捕虜とした。

 

漢の高祖三年(紀元前204年)10月、韓信は新たに徴募した新兵一万人による漢軍を率いて、太行山を越えた。東に向って、項羽の属国・趙を攻撃するた めである。趙王と大将の陳余は20万の兵力を配置集中して、太行山の東の要害・井陘口を占拠して、迎撃の準備をした。井陘口の西は、百里も続く狭い一本道 で、両側に山が迫っているが、韓信が必ず通らねばならない道であった。

 

趙軍の参謀・李左車は、正面は死守するものの交戦はせず、隊を後方に派遣して韓信の糧道を断ち、韓信を井陘の狭い道に封じ込めようという策を献じた。

 

ところが、陳余はこれを聞き入れず、「韓信はわずかに数千人だ。遠路はるばる来たのに、もしわれわれがこれを避けて交戦しなければ、諸侯たちの物笑いにになるではないか?」と述べた。

 

韓信はこの知らせを探知すると、迅速に漢軍を井陘の狭道に進入させ、井陘口から三十里のところまで進んで宿営をした。真夜中、韓信は2千騎を派遣して、 それぞれに漢軍の旗を持たせ、小道から迂回して、趙軍の大宿営地の後方に伏せさせた。韓信は、この一隊に、「交戦時、趙軍は、わが軍が敗走するのを見る と、必ずや全軍を出して追撃してくるに違いない。そこで、おまえたちは素早く趙軍の宿営地に侵入して、趙軍の旗指物を抜き取り、漢軍の紅旗を立てるのだ」 と指示した。

 

残りの漢軍は、簡単に食事を済ませると、すぐさま井陘口に向って出発した。井陘口に到着すると、大隊は綿蔓水(めんまんすい)を渡り、大河を背にして陣容を張った。高所の趙軍は遠くからこれを見て、皆韓信を嘲笑った。

 

夜が明けると、韓信は大将の旗印と儀仗を用意し、隊を率いて井陘口を出発した。そして、陳余が精鋭を率いて、韓信を生け捕りにしようと出撃してくると、 韓信は、わざと旗を投げ捨て鼓を捨てるふりをして、川岸の陣地に逃げ戻った。陳余は、趙軍に全軍出撃するよう命令し、漢軍の陣地に迫った。

 

大河を背に陣取った漢軍はもとより退路はなく、各兵士は勇敢に戦った。双方の斬合いは半日続いたが、趙軍は勝てなかった。

 

このとき、趙軍は態勢を立て直すため宿営地に戻ろうとしたが、時すでに遅し。自軍の宿営地全てに漢軍の旗指物がはためていることを知り、隊伍はすぐさま大いに乱れてしまった。韓信はこの機に反撃を行い、その結果、趙軍は大敗、陳余は戦死し、趙王を捕虜として捕らえた。

 

戦いの後、ある人が問うた。「兵法では、後ろに山を控え、水に面して陣を張る、とあるのに、今回は全くの逆でした。それなのに勝利したのは何故です か?」 これに対して韓信は、「兵法にも、『これを死地に陥れてしかる後に生き、これを亡地に置きてしかる後に存す』(編者注:自軍の兵を逃げ場の無い絶体絶命の 状況に追いやり、生き延びるために必死なるよう仕向けて戦わせたことをいう)と言われているではないか?お前たちはこれに気がつかなかっただけだ」と答え た。

半渡の計

漢の高祖4年(紀元前203年)11月、韓信の大軍は、斉国の救援に来て、淮水の下流で漢軍と対峙している楚の将軍・竜且の20万の大軍を迎え撃った。 韓信はまず、分遣隊を夜半に上流に向かわせ、土嚢でその流れを堰き止めた上で、夜明けに軍を派遣して楚軍を正面で迎え撃った。そして、わざと負けたふりを して潰走し、河を渡った。

 

そこで、竜且将軍は、自ら軍を率いて准水を渡り追いかけてきた。このとき、漢軍は土嚢を突き崩し、楚軍は大水のために二つに分断された。韓信は、河を渡り終えた楚軍を全滅させ、竜且も殺した。まだ河を渡っていなかった斉楚連合軍は戦かわずして自滅した。

 

韓信は、勢いに乗って軍を指揮して敵を追撃し、斉王の田広を捕虜にし、斉の地を全て平定した。これが、孫子兵法にある「半渡の計」である。

指揮の器

あるとき、漢の高祖・劉邦は韓信に問うた。「もし私が、兵を率いるとすれば、どれぐらいの兵士を率いることができるか?」これに対して韓信は、「陛下 は、兵士10万人を率いることができます」と答えた。漢の高祖はまた、「では、あなたはどれぐらいの兵を率いることができるのか?」と問うた。すると、韓 信は笑って答えた。「多ければ、多いほどいいのです」。

 

嫉妬深い劉邦は、兵を指揮する能力が韓信に及ばないかのように言われ、面白くなかった。韓信は、「陛下は兵を指揮するのは得意ではありませんが、将軍を指揮するのは上手です」と諭した。

 

劉邦は、韓信の言う通りだということはわかっていたが、了見が狭く、韓信の能力が自分より上かもしれないと感じて、嫉妬と不信任の思いが日々増大していった。

漢の高祖5年(紀元前202年)12月、楚と漢の両軍は、垓下(現在の安徽省・霊璧南)で決戦を展開した。劉邦は、韓信を主将として、大軍の各部隊を統一して指揮させた。項羽は、楚軍10万を指揮して、正面から漢軍の陣地に向って猛攻撃を仕掛けた。

 

韓信は、典型的な鶴翼の戦法を採用し、漢軍の本隊を少し後退させ、楚軍の鋭気を外し、両翼を展開して、側面攻撃を実行した後、再び本隊を推し進め、敵勢力の包囲を完成した。

 

夜になって、韓信は、四方に展開した漢軍に楚の歌を歌わせ、ついには楚軍は戦意を喪失、漢軍によって包囲殲滅させられた。項羽は、既に大勢が決したと判断し、烏江の辺で自刎した。

 

これによって、5年に及んだ楚と漢の戦いは、漢の劉邦が天下をとって終結したのである。

劉邦、功臣を罪に陥れ殺害

「楚漢の戦い」の中で、劉邦は人材を集めるために項羽と決戦することにし、功労のあった人に賞を授けることにした。例えば、張耳を趙王にし、黥布を淮南 王にし、臧荼を燕王にし、信を韓王にするなど。韓信も斉国を攻め落としてから、斉王を授かった。しかし、項羽が攻め落とされてから、心の狭い劉邦は口実を 使って韓信の軍事権力を奪おうとし、韓信を斉王から楚王に変えた。さらに、西漢が創建されてから、韓信が反乱を企んだと無実の罪を着せた。劉邦は南方・游 雲夢を抑えつける口実で陳平と結託し、諸侯との面会を求め、韓信を拘束しようと企んだ。韓信は知らずに劉邦に謁見した。韓信はその場で拘束され、後に淮陰 俣に降格させられた。

 

鋸鹿守・陳豨が反乱した時期に、韓信のもとにいる居俣は韓信の気に触ったことから拘束された。そこで、その弟は復讐しようとして、韓信が反乱し呂后を襲 撃すると誣告した。それを聞いた呂后は蕭何と共謀し策略を操り、反乱した陳豨が鎮められたと偽情報を流し、諸侯と群臣に祝賀の儀式に参加するよう通達し た。韓信は無防備に祝賀の儀式に着いたときに、呂后に派遣された武士に拘束された。韓信は長楽宮で殺害された上、一族も皆処刑された。

 

司馬遷も「史記」の中で、韓信のもとにいた居俣の弟の韓信に対する誣告は、まったく事実無根として冤罪であると示した。秦檜が「でっち上げ」の罪名で岳 飛を陥れたのも歴史上の大きな冤罪事件だというのは周知の通りで、劉邦、呂后などが韓信を殺害したことも同様に永遠の悲劇で冤罪事件として残った。

 

その一、韓信の言行

韓信がもし反乱しようというのであれば、「楚漢の戦い」がもっとも良い機会だった。当時、韓信は軍事力を握り、兵力が強大であり、混乱した時勢だったた め、一方の雄を唱えることができた。これに対して、劉邦が紛争を鎮め、天下を統一したのち、軍事権力及び軍隊を奪われた韓信が反乱を企むのは、まさに自ら 進んで網にかかる行為ではないか?韓信の智恵や頭脳からしてこの状況を考えつかないのはありえないことだ。反対に、韓信は2度も三分天下の勧めおよび 劉邦に背くことを断った。

 

劉邦、項羽が天下を争う重要なときに、項羽は武渉を韓信のところに派遣し、「劉項のことはすべてあなたが握っている。あなたが右に寄れば、漢王が勝利 し、左に寄れば項王が勝利する」ことから、「楚漢の戦い」において、韓信は全局面を左右する重要な人物だと説明がつく。武渉は韓信に対して、項羽と連携 し、劉邦と三分天下を勧めた。しかし、韓信は、「私は当年項王に追随したとき、矛を持ち宮殿の入り口を守衛するものだった。私の提案は採用されず、そのた めに、楚を背き漢に帰属した。漢王は私に将軍を授けてくださり、数万の大軍を与え、良い衣服や美食も分け与えてくださり、意見を聞き入れてくださったか ら、今日の私がいるのだ。私のことを非常に信用してくださっている漢王を決して裏切ることはできず、私が死んでも心は変わらない。項王のご厚意に感謝する と伝えてください」と答えた。

 

武渉が去った後に、齊人の蒯通は天下が韓信に握られていると知り、奇策で韓信を感動させようとし、面相の説にて韓信を動かそうとした。蒯通は、「真正面 から見たあなたの面相は、危険かつ不安定な立場に立たされている。しかし、裏の面相では、貴重で尊いお方だ(実際、韓信に対して劉邦を裏切るように唆して いる)。韓信はそのわけを聞いた。蒯通は、劉項の運命は韓信が握っているとし、韓信が漢に身を寄せれば漢が勝利を獲得し、楚に身を寄せれば楚が勝利を獲得 する、と天下の情勢を分析し、韓信に対して三分天下を勧めた。

 

韓信は「漢王は私を優遇し、私を車で送り、衣服や美食を与えてくれているから、憂患を分かち合い、忠誠を尽くすべきだ。利益のために裏切ることはできな い」と答えた。蒯通はさらに、人の心は難しいとし、韓信は漢王に対して忠誠を誓っても、智勇兼備、功労が天下を覆うほど大きい人臣としては、とても危険だ と指摘した。数日後、蒯通は再び韓信に対して、時機を逃さずに決断をするようにと促した。漢を背信できない韓信は、漢に対して功労を残したことから、漢は 義理も人情もないことはしないと考えた。韓信の言行から、彼が反乱を企むとは実に信じがたいことだ。

 

その二、劉邦の奸計

「楚漢の争い」中および西漢が成立した初期、劉邦は功臣や大将に褒美を取らせ、前後して十余りの異姓王を封じた。目的は明らかで、一面において項羽と天 下を争って勝利するために、人材を集める必要があったこと、また別の一面において、政権の初期であるので、なお堅実ではなく、功臣の人心を慰めなければい けなかったことだ。

 

この故に、功臣や大将に報奨するにしても、それは決して自らの本心、真心から出たものではなく、一時しのぎに過ぎなかった。彼は、功臣や大将に対して一貫して猜疑と嫉妬をもち、諸候王の子を関中に遷して、長楽宮に人質として軟禁した。

 

一旦政権が安定すると、劉氏の国家を維持するために、彼は功臣や大将に対して粛清を開始した。「謀反」を口実に、あるいは挙兵して討伐したり、姦計で押 し詰めたりして、異姓の王を取り除いて、その後に劉氏の子弟である同姓の王を封じて取って代わらせた。燕王の臧荼、梁王の彭越、淮南王の英布、韓王の信 (韓信ではない)など、全員がそれゆえに殺された。

 

韓信は、劉邦に直接殺されたわけではないが、異姓の王を取り除き、同姓の王を封ずるにあたって、その奸計の犠牲となった。つまり、呂后、蕭何は、劉邦の 願いに従っただけである。韓信は、人に謀反を誣告され、劉邦の命を受けた武士に拘束された。韓信はかつてこう感慨した。「果たして人の言う通りだ。『狡猾 な兎が死ねば、良い猟は(用がなくなって)料理され、空高く飛ぶ鳥がいなくなれば、よい弓はどこかにしまわれる。敵国が滅びれば、智謀の臣は殺され る。』天下はすでに平定され、私は固より殺される運命なのだ」。

 

韓信のこの段の話は、劉邦の功臣粛清をよく表している。

 

その三、呂后の野望

西漢の建国後、呂后を元首にした呂氏は、劉氏の国家を奪い取ろうと画策し始めた。その際、漢朝の開国の元勲は、明らかにその野望実現の阻害であり、韓信 もまた、最も疎ましい人物であり、すぐにでも排除したいと考えた。結局、奸計によって宮中に騙し入れられ、謀られて殺害された。

 

韓信の人生は、数奇で紆余曲折したものであった。彼の人となりは、若くして大志があり、胸襟を広げ、大忍の心があった。主人に仕えるに忠信を以てし、恩人 には報いようとし、恨みに報いるに徳を以てする。孟子曰く、「富貴にして溺れず、貧賎にして心を移さず、威武に屈せず、これを大丈夫(だいじょうふ、立派 な男子)という」。これに照らすなら、韓信は眞に堂々たる大丈夫と言えよう。

 

ただ運命の悪勢力は人をたぶらかした。もともと、韓信は戦いの合間に『韓信の兵法』を著し、後世の人に残して役立てようとしたが、三章を著しただけで、呂後らに謀殺され、『韓信の兵法』も失われてしまった。

 

韓信は、劉邦を助けて漢朝の天下を打ち立て、威徳、兵法、知恵は卓越し、空前絶後の人であった。当然、本来なら後世のために兵法を残し、中国の伝統的文 化のために秀でた貢献をし、後世の世人に兵法の達人と崇拝されるはずであった。ところが、運命の悪勢力は、劉邦、呂后といった度量が小さく、嫉妬心の大き いやくざ者をそそのかして韓信を殺害し、その優れた兵法を伝わらなくさせた。その結果、中華の民全体の知恵は破壊され、社会における正しい気風の樹立も打 撃を受けた。実に惜しい限りである。

(完)


 

【中国語】

历史故事:千古名将韩信

韩信,大汉王朝开国第一功臣,是中国古代史上最善于灵活用兵、平生无一败绩的杰出将领。他精熟兵法韬略,在征战中屡出奇谋,未尝一败,给后世留下了许多著名战例和奇妙策略。而他在初出茅庐之际便因谋略倾倒了刘邦的谋士萧何,以至有了“月下追韩信”的历史典故;他在拜将之初便推演勾画出未来天下之局势,定下了如何击溃诸国、一统天下的作战方略,可谓文武全才。楚汉时人推许他为“国士无双”、“功高无二,略不世出”,后世赞誉其为“战”和“兵仙”。在北宋司马光所著的《资治通鉴》中评价他说,“韩信首建大策”,“汉之所以得天下者,大抵皆信之功也”。

 

关于韩信的民间传说有很多,这里仅列举几例史书上记载的传世故事:

胯下受辱 难忍能忍

韩信少年时虽是没落王孙子弟,但自小勤学兵法韬略,胸怀大志,少年时有一次走在街上,有个屠户少年见他落魄,却身形魁伟,腰挎宝剑,便拦街挑衅道:“你果有胆量,就来杀我啊;没胆子杀我的话,就从我的胯下钻过去吧。”韩信端详了他片刻,就真的从他的胯下钻过去了。众人皆笑,以为韩信是懦夫。韩信功成后还乡,封给屠户中尉的军职。

背水为营 拔帜易帜

韩信率汉军与赵国成安君战,背水列阵,敌帅大笑,倾尽全力与汉军决战,汉兵置诸死地而后生,拼力死战;韩信料定敌营空虚,早安排下轻骑兵突袭赵国大本营,拔下旗帜,换上大汉军旗。赵军准备回营时,发现营旗已换,不知虚实,以为汉军已完全攻占赵营,军心大乱,汉兵前后夹击,大败赵军。

沉沙决水 半渡而击

韩信率兵与楚齐联军在淮河附近对阵,敌军势大,韩信令人制作了上万个盛满黄沙的皮囊,连夜堵在淮水上流,自己带兵渡过淮水来袭击敌军。交战之后假装败走,对方大喜,趁着自己兵多将广,全力追击汉军。见敌军将帅渡过淮河,汉军刺破皮囊,黄沙流失,淮水复流,将敌军截为两段,对方主力仓猝之间不能渡河,主帅被汉军杀死,敌兵溃败。

四面楚歌 十面埋伏

汉王刘邦被楚军围困于固陵,危在旦夕,便请齐王韩信来援救,承诺击退楚军后将大片土地送与韩信。韩信与盟军出兵,重重围困楚军于垓下。因项羽骁勇,韩信便安排大批军士在夜间吟唱起悲凉的楚歌,楚兵思念故土,军心动摇。楚霸王项羽大惊,以为家乡也已被汉军攻占,吟唱悲歌的是归顺汉军的楚地战俘,便无心恋战,率兵突围。因无颜回乡见江东父老,与汉军激战,自刎身死。汉军得胜,很快就统一了天下。

忠义辅主 功成受戮

韩信用兵如神,战无不胜。项羽恐惧,知道韩信的选择是决定楚汉两国未来命运的关键,就派说客来齐国游说韩信,具陈刘邦的不可信,欲与韩信修好,三分天下。韩信感念刘邦的知遇之恩,不忍背离,遂拒绝项羽。齐国谋士蒯通亦再三劝韩信自立,以免将来功高震主,功成受诛。韩信犹豫,最终不忍背叛刘邦。平定天下后,韩信果然因才遭忌,接连被贬,最终被阴谋家吕后骗入宫内,以谋反罪名被诛杀。

 

因韩信被扣的是谋反罪名,所以在西汉时作成的《史记》中对他也是颇有贬抑,实在是因为司马迁因李陵投敌案遭受宫刑,若秉笔直书,在当时的环境下,这倾注了作者大量心血的《史记》巨著也很可能被当朝毁去,无法留传于后世。但韩信的精彩故事和惊世奇艺一直在民间被广为传诵,至今不衰。宋朝的《事物纪原》中记载了他曾利用风筝来测距,而在中国民间古老相传,变幻无方的中国象棋便是由韩信发明,或为纪念韩信而创制。棋盘上特有的“河界”是他在实战中经常运用的战略元素,虽然后来历经演变,加上了“炮”子,但当时标注着的“楚河”、“汉界”的时代称谓一直留传到了今天。

 

韩信曾与张良一起整理了先秦以来的各种兵书典籍,并著有兵法三篇,可惜今已失传。

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