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太太(タイタイ)という呼び名の由来

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中国では、夫人のことを「太太(タイタイ)」と呼びます。

この呼び名はどこから来たのでしょうか。


周(紀元前1046頃―紀元前256年)の時代、母親の模範であるとして「三太」と称された3人の人物がいる。周太王の妃・太姜(たいきょう)、その息子の嫁・太妊(たいじん)、孫の嫁・太姒(たいじ)である。彼女たちは平和な時代を築いた王たちの教化と補佐役を務めた。

太姜は非常に智慧のある女性であり、息子たちへの教育は太姜自らが手本を示した。息子たちは幼いころから品行方正で、間違いを起こすことがなかったという。周太王は三人の息子を持っていたが、末子の季歴(王季)を周王として立て、その子である昌を後継者にすることを願った。季歴の兄たちは、王位継承がつつがなく行われるようにと自ら南方の荊蛮へ出奔した。この話は、美談として後世に語り継がれている。これは、母親である太姜の息子たちに対する教育の賜物といえるだろう。

太姜の息子・李歴の妻である太妊は生来、厳格で品行方正、何事にも仁義と道徳に照らし合わせて物事を行ったという。太妊は妊娠中に胎教を重んじたため、生まれてきた昌(のちの文王)は一を聞けば十を知るほど聡明であった。太任は歴史上、胎教の先駆者である。

この文王の夫人・太娰は情け深く、温和で従順、賢明有徳で大局に心を配る女性だったという。嫁ぐ前の生活は倹約質素であり、師を敬い、礼儀正しく何事も丁寧だった。当時の女性が高い教育を受けていたことを示している。 文王は太娰の美徳に敬服し、妻に迎える際、自ら渭水※(いすい)に出向いた。この時、渭水に橋がなかったため、文王は船を連結した浮橋を造り、対岸の太娰を迎え、真摯な愛情を示したという。

文王に嫁いだ後も太娰の性格は変わらず、義理の祖母である太姜と義母の太妊を敬慕し、その徳行を受け継ぎ、日々よく努め、婦道を極めた。失礼なことや過失をしたことはなく、さらに孝道(よく父母につかえる道)も極め、よく実家に帰り父母を慰めたという。女性としての礼儀節操、守り行うべき道により天下を治めた太娰は、人々に「文母」と呼ばれ、文王が外を治め、文母が内を治めたと言われている。

太娰は10人の息子を産んだが、その中には商紂を討伐した武王、周王朝の立役者のひとりである周公旦も含まれる。息子たちが成長した後は文王が彼らを導き、周公旦の天子の徳を成就させた。後に魯の国を開祖した周公旦は、儒学の創立者として孔子が尊敬した人物のひとりである。

今日、中国で夫人のことを太太と呼ぶのは、この三人の偉大な女性たちを称え、手本とするためである。男女の別なく、皆がこの三人の太太のような賢明さや德を備えれば、天下は安定するだろう。

※渭水(いすい)― 黄河の支流のひとつ。

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